Temo che combatterò la primavera in blu.

ほとんど昔の、嘘と本当の交じった日記

幾度目かのストロベリー・ムーンで

 昨晩は特別な光の波長によって、満月が赤く染められたらしい。“らしい”と表現するのは勿論、僕はそれを見逃しているからである。昨日は部屋から出ずに映画を三本ぶっ続けで見てしまった。宇宙の粋なはからいを見逃したのに気付いたのは、翌日である今日の、ただの曖昧な『ほぼ満月』のもとだった。夜道を歩きながら、脳内で「あー、しまったなー」と言葉を再生したけれど、本当はそんなに後悔していない。今日の月もなかなか綺麗だ。薄らと夜雲がかかって輪郭がはっきりしないから、あれはおぼろ月?そう思ったけど、調べるとおぼろ月は春だけの季語だそう。じゃあ、あの月はなんて名前なのかな?初夏、霞む雲のむこうにある。その名前は結局、分からずじまいだった。

 うっすらと疑念を抱いている。スーパー・ムーンやストロベリー・ムーン、もっと言えば日食やら月食も含めた、月に関するイベントだけど…案外開催頻度高くない?何十年に一度しか見られないとか、次に見れるのは2085年ですとか、そんな謳い文句を年に何度も耳にする気がする。僕達は騙されているかもしれない。月に関するあらゆる催しは滅多に見られないなんて嘘で、北海道フェアくらいの頻度で開催されているかもしれない。これこそが真実だ─────とは言わないけれども。どれも少しずつ違うのだろうけど。だけど、僕は今までに観た特別な月をあまり覚えていないから、案外色々やってるよなとか変な疑念を言い出す。月のことは好きな方で、とくに特別な色形を見れると聞けば、あえて外に出てみたりもする。でも記憶の映像としては端から消えていくばかりだ。わずかに覚えているのは、誰かとその出来事を共有したかくらい。そして、それが何より大事なことなのだと信じている。

 100年に1度と言われようと、遠く手の届かない月の姿なんてすぐに忘れる。だけど、誰かと特別な景色を分かちあった事実は残る。それだけでいいのだ。そんな出来事が死ぬまでに多ければ多いほど良いに決まっている。もう生きてるうちに見られないなんて、別に嘘かもしれない。学術的裏付けは真偽不明、調べるつもりもない。本当は年に二、三回あるとしても、騙されてしまえばいいのだ。もう二度と見られないものを一緒に見られてよかったね、と。おい!曇ってるじゃねーか!とツッコめばいい。冗談のふりをして、月が綺麗ですねと言ってみるのもいい。(これ、アチャチャのオゲゲだけど、実は皆言ってみたことあるんだろ?)そうして変な空気になればいい。北海道フェアだって、毎回さも初めてかのように見ればいいのだ。じゃがポックルあるかな?ってね。些細な会話、たわいもない時間、すべてが積み重なって思い出になっていくと思うから。また幾度目かの“何十年に一度”がやってくる。その度に僕は特別な色形を口実に、一緒に月を見ようと誘いたい。