Temo che combatterò la primavera in blu.

ほとんど昔の、嘘と本当の交じった日記

理屈や利益には救えない心のベクトル

 最近同棲を始めた友人達の部屋は、木々のあわいにおちた陽溜まりのように優しい空気に満たされていて、まるで彼等の明るい未来を暗示しているような気がした。夜中まで丹念にオイルを塗り込んだのだという無垢のダイニングテーブルは確かに立派な代物で、朝の珈琲を傾けて自慢げな友人の話をいつまでも聞いていたいと思った。彼の目線の先にはいつでも彼女が居る。窓辺に置かれたソファの上で彼女は何とも無邪気に笑っていた。その日は日曜にふさわしい完璧な太陽で、レース・カーテンを透過する光に頬を照らされた彼女を見て、映画(のようにまるで完璧なもの)を観ているような気分になった。

 彼にとっての彼女は、太陽のような人なんだと思う。彼女はとてもしっかり者だけど、天然というか子供のような所もある。一緒に居たら行く先々でハプニングを起こしてくれる気がする。それは決して悪い意味ではなくて、ドタバタ劇のような、退屈しない毎日をもたらしてくれる人だろうという事である。そして彼女は愛嬌のかたまりと言っていい。いつでもニコニコ笑顔だから、一緒に居ると元気が出る。どんな事でも一緒に楽しんでくれて、いつでも底抜けの明るさで無邪気に笑う姿は、友人の心を何度でも救ったのだろう。二人はどこまでもお似合いのカップルだから、いつまでも一緒にいて欲しい。

 どんな人と過ごすかで、人生は百八十度一変する。天然でおてんばな人と共に居たならば、楽しく退屈しない日々を送れるだろう。しっかり者で落ち着いた人と共に居たなら、浮き沈みない平穏な暮らしを送ることが出来るかもしれない。いずれの場合にせよ大事なことは沢山あるだろうが、そのうちの一つは「自分自身を好きでいさせてくれる人」と共に居ることだと思う。勿論、自分も相手にそう思ってもらえるようにあるべきだ。お互いがそう感じることの出来る関係ならば、どんなに素敵なことか。

 僕は今、なだらかに日々を送っている。数年前に思い描いた未来とはまったく違うけれど、最近はこれも悪くないかと思うときもある。今となってはだけれど、別れることにはなってしまったけれども、結婚したいなと思えるくらいの人に出会えたことは、二十歳そこら迄の僕の人生は間違いなく良いものだったと結論づけるに足りる理由になった。そして、その宝物を胸の奥にしまえるくらいには時間が経ってしまった。新しい道を歩む勇気がささやかに芽生えていくのを日々実感している。この道の先にも幸せはあるのだろう。何もかもを打ち消してくれるような素晴らしい日もある。この暮らしがもたらしてくれる幸せには感謝するばかりだ。ただ一方、日々を行くさなかで遣り場のない寂しさに気付かぬふりをしている。喉につかえた小骨のような違和感が時折チクリと胸を刺す。僕のやっていることは、あの頃してあげられなかったこと、してあげたかったことのリプレイでしかないかもしれない。飲み下せない違和感の残滓は、梅雨どきの低気圧のように呼吸を浅くさせる。不安があるのは心苦しいけれど本音だ。これから向き合っていく必要がある。さもなくばこの先も自分を好きになれないときには、昔のことを偲んでしまうだろう。あの頃、自分自身を好きで居られたのは何故か考える。ありがとうね。

 いつかは遠く透き通る空のような心で、真っ直ぐ歩けるようになれればいい。