Temo che combatterò la primavera in blu.

ほとんど昔の、嘘と本当の交じった日記

ねえチェルシー、無責任に言葉を放って!

 夕焼けの多摩川に架かるガス橋を歩き大田区に進入していた。オレンジ色が跳ね返る水面のあちらこちらに鴨が浮かんでいて、眩しくないのか不思議に思う。その先に目線をあげていけば対岸の河川敷に染井吉野の並木が遠くの方までずらりと立ち並んでいる。桜並木はガス橋から隣駅の鵜の木方面にかけて約百二十本も植えられており、ここら辺では福山雅治の曲のモチーフにもなった「桜坂」と並ぶ桜の名所になっている。一級河川沿いらしく風景はすがすがしく開けていて土手には緑地も敷かれているから、腰を下ろして花見をするならこちらの場所一択だ。この週末に東京の桜は完全無欠の満開を迎えていて、昼過ぎに同じ場所を通りがかったときにはやはり土手から溢れんばかりの花見客で賑わっていたのだけれど、十七時半を過ぎた今はブルーシートやお酒の残りを片付けて帰り支度をする人達がちらほら残るだけだった。まあ、当然なのだ。多摩川土手沿いでは夜桜をライトアップする様な粋なイベントは行われていないどころか、まともな街灯すらないので日がまったく落ちてしまえば人の顔すら判別できないほど暗くなる。もう夕暮れどきになり肌に触れる空気も冷えてきているので潮時だ。あとの祭りという雰囲気がそこらじゅうに漂っていて、参加もしていないのに物寂しく感じた。

 明治がつくるロングセラー・キャンディであるチェルシーが三月いっぱいで販売終了になったと聞く。初めてそのニュースを聞いたときには「え!?寂しいな。好きだったんだけどな」と思った。SNSのタイムラインでも同様に「寂しい」とか「昔よく食べていました」とかチェルシーの終売を嘆き悲しむ人々の声が多く見られた。一方で悲しみの声に対して「お前らが買わないから終売になったんだぞ」「普段買わないくせにいざ無くなると知った時だけ言ってんじゃねーよ」という糾弾の意見もよく見かけた。まあ、その通りだと思う。大人になれば世の中がどんなからくりでできているかはある程度理解できる。チェルシーは売れていないのだ。販売コストに対してあらゆる方面から収益性がないと判断されたから販売中止にされるのだ。事実、僕もチェルシーを買っていない。子供の頃、両親が教えてくれたチェルシーを気に入って、少ない小遣いで買っていた時期はある。小学校の遠足のお供に選んだこともある。それでもここ十年ほどは口にしていなかったし、最近ではスーパーで見かけても買おうかなとすら考えたことがない。

 ただ僕はチェルシーがお菓子売場に並んでいる世界の方が良かった。飴コーナーのだいたい下段のほうに赤と緑のパッケージが並んでいる、いつも通りの世界が好きだった。ほんの気まぐれでチェルシーを買うことができる可能性を秘めた世界が好きだった。気まぐれで買ったチェルシーを誰かと「懐かしい味だね」と分け合えたかもしれない世界が好きだった。その方が良かったというだけの話だ。いつも通りの世界が変わっていくのが寂しくて、ただ無責任に居なくならないでと言いたいのだ。チェルシーがなくなるのは僕等の責任じゃない。人気がないチェルシーがわるいのだ。あんなに甘い味の飴を毎週でも買いたいなんて大人がそういるわけないし、そんな常識を一変させる広告戦略が打たれていた訳でもない。「買わなかったお前らが悪い」なんて意見は、メーカーが言うなら他責志向すぎるし、カスタマーが言うならそれは逆に自責思考が強すぎるだろう。ただ誰かを冷笑したいためだけの言説だ。チェルシーが無くなったとして僕らの生活はまず変わらないし、お菓子売り場にもごくわずかな変化しかもたらされない。そしてごくわずかな時間が過ぎただけで、寂しいと思っていた事すら忘れてチェルシーのない世界に慣れていく。カールの無いお菓子売場も、松本人志が居ないテレビも、思ったより変わらずに続いていった。でも僕は松ちゃんも居るテレビの方が好きだ。チェルシーをもう一度だけ食べておけば良かった。

 今日の日中は春にしては異常なほどの太陽の照りつけで、真夏の様な暑さに「やりすぎやりすぎ!」と文句を付けていたのだけれど、夕方になればまだ肌寒くてあの暑さが恋しくなった。いつだって僕等はないものねだりだ。来週末には桜の若葉の芽が解けて、完璧に真っ白な桜はもう見られなくなる。それも寂しいけれどすぐに忘れる。桜は再び一年後に必ず咲くのだからありがたいものだ。また満開の桜に期待が寄せられる、来年の春を楽しみに待っている。