Temo che combatterò la primavera in blu.

ほとんど昔の、嘘と本当の交じった日記

雷、或いは心がざわつくニュースの日には

 街の一切合切がまるごと爆裂したみたいな、おそろしい雷が鳴った。前触れのない衝撃音とともに建物が大きく揺れて、それが天候のもたらしたものと理解するのに時間を要した。近所の工場が非現実的な大事故でも起こしたのかと推測したほどだ。窓の外に目を向けると、薄ら雨の先に閃光が瞬いた。数秒経ち、ごろごろと雷鳴が轟く。幾重に弾けるフラッシュ。やがて雨もざんざんと強まり出した。芽吹くただひとつの心配は帰り道のことではない。涙、小さく震える肩、脳裏に映る幻は雨のしずくと一緒に胸の奥まで染み込んで、思い煩いをまた呼び覚ました。

 雷の日にある人のことを心配する癖をやめられない。雷が鳴って、いの一番に思い浮かぶのはいつまで経ってもあの頃と同じ姿だ。稲光から轟音が届く迄の合間、怯えて目を瞑る。そう遠くに住んでいる訳じゃないはずだから、同じ雷鳴を聞いていることだと思う。今もあの頃の様に恐がっていないか、心配になってしまうのだ。それは雷に限った話では無い。心がざわつくようなニュースの日。あるいはふと、周りとの人間関係に悩んでいないか。心が重たく苦しくなっていないか。息がしづらくなっていないか。

 彼女にはもう別に近くで寄り添って助けてくれる人が居るはず。その次に半笑いで思い付く「もう僕が心配しなくても、大丈夫か」みたいな心底くだらない言葉は悔しくてもう書きたくない。ちぇっ。あるいは、もしかしたらあの人は雷を克服したかもしれない。正直考えにくいけど。真偽は知る由もない。通常運行の暮らしには、風の便りが届くような繋がりもないから、どこでどうしてるか分からないけど。神様がいるならどうか彼女の心を憂鬱にしないで。彼女の心を大切に守って。

 最近ツイッターで「わかる…」と頷いてしまった投稿があった。当たり前の日常に溶け込んだ人を忘れることは難しい。きっかけは世界に溢れ切っている。実家に。横浜の街に。天候に。時間に。仕草に。表情に。身体に。スマートフォンに。出来事に。成行きに。思い出に。彼女を思い出さない日は無い。そして、彼女のこれから先を知ることができないことがずっと苦しい。